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ただでも目つきの悪い目はさらに鋭く、見るものを射殺すかというほどの眼光を放ち。広げていた扇を一見優雅にも見える仕草ですぱんと閉じて、彼女は不快げに口元を歪ませた。
彼女の座る椅子は革張りのとても高価なもので、これ一脚で並みの家一軒ならぽんと買えてしまう。
彼女はその、誰もが座るのを躊躇うほどの椅子にふんぞり返って腰掛け、苛立ちを掻き消そうと紅茶を飲んだ。
「…ふん。こーけいしゃだってぇー?断る。そんなもの、欲しいと思ったことは一度もない!とっとと失せとくれ。あたしゃ忙しいんだよ。」
紅茶の、鼻をくすぐる癒しの香りすら彼女の前には役立たない。
彼女の眼光に竦み上がって肩を寄せ合っていた5人の男たちは、泣きそうな顔をしながら、それでも立ち退かなかった。

「ああ、あああ貴方が代表をやらねば誰がやるというのです!」
「そうですそうです、貴方以上の適任は他にはおりませんですよ!」
「それに、あちらも貴方を希望しておられます!」
「かの方に気に入って頂けるというのは、それだけで名誉なことなのですよ?」
彼女は大仰な溜め息をつくと、ティーカップを後方に放り投げた。
孤を描いて飛んでゆくカップの価格は、やはりとんでもない。しかしカップは床面に着地する前に音もなくかき消えた。

「物を粗末にしちゃダメだって、いつも言ってるだろ。」
「壊れやしないだろ。そうやってお前が片付けるんだから。」
「だからって投げちゃダメだ。」
「五月蝿いね!お前まで説教しに来たのかい?」
「俺はともかく、お客人は君に説教しに来たわけじゃない。」
「喧しい!」
ぱんっと椅子の肘掛を扇で叩く彼女。ふいに彼女の背後に現れた青年は困ったように微笑をもらし、5人の男に頭を下げる。
「すみません、お客人方。うちの主ときたらそれはもう頑固で優柔が利かなくて我儘で高慢極まりなくて…。」
「いや、いいんだ。それより君からも言ってくれないかい。私たちは、彼女に後継者入りしてもらいたい。」
「彼女の実力は俺たちが一番よく知っている。彼女が後継者入りするのに必要な助力は惜しまない。それは、町の皆がそうだ。」
「彼女ならやれると思うからこそ、私たちは少しでも彼女の力になりたいと、思っているんだ。そう、後継者入りは、国一番の名誉だ。」
言い募る男たちに、彼女はそれこそ心底不快感も露わに足を鳴らした。

「五月蝿い五月蝿ーい!何度言ったら分かるんだい!あたしゃ後継者になんてなりゃしないよ!他をあたっとくれ!」

彼女は勢いよく立ち上がる。
男たちは彼女の迫力に押されて一歩下がる。対して青年は、逆に一歩前に出て彼女の肩に手を置いた。
「お客人の好意を無碍にするのか?」
「そんなものは知らない!!あたしが嫌だと言ったら嫌なんだ!!!」
青年の手を振り払って、彼女は部屋を出て行った。男たちの言葉には一切耳を貸すことなく。

そうして取り残された5人と青年。
お互いがお互いに、微妙な表情を浮かべて視線を合わせる。
しばしの沈黙の後、誰からともなく苦笑を浮かべる。

「俺たちは、甘えているな…。彼女には昔から、色々と助けてもらってばかりだ。何の恩返しもできずに、ただ助けてもらってばかりで…。」
「正直、彼女が町を出て行くことを嫌がってくれて、ほっとしているんだ。私たちは町の皆は、彼女が大好きだ。彼女に捨てられなくて、嬉しいとすら思ってしまっている。」
「ほんとにねぇ…何に対してもぶっきらぼうで素直じゃないっていうのが欠点だけど、そこがまた可愛いからねぇ。くくくっ…俺の奥さんなんか、後継者入りを先方から申し出られた彼女を、実の娘のように隣町の連中に自慢してるしな。」
「はははっうちの娘も彼女にぞっこんだよ。恐いけどとっても美人で頭もよくて、とても優しいってね。娘の憧れの人だそうだ。」

青年は頭を下げて、そして笑う。
「そう言って頂けると、主も喜ぶと思いますよ。ま、素直には喜ばないと思いますけれど。」
「ふははっ違いない。」
「…けれど、何故ですか。貴方方自ら主に申し出を受けるようにと薦めるだなんて…正直なところ、驚いています。むしろ引き止めてくれることを期待していましたし…。……今頃主もさぞ、残念がっているでしょう…。顔には出しませんでしたけれど、動揺していました。」

5人はそれこそ困ったように笑う。
「俺たちは、彼女はこんな田舎町で燻っているような器じゃないと思う。彼女にはもっと、彼女に相応しい素晴らしい世界がある。」
「こんな形でしか恩返しできないのが歯がゆいがな。俺たちは、彼女はもっと幸せになってしかるべきだと思う。」
「私たちが彼女を独占するわけにはいかないだろう。彼女をこれ以上、こんな場所に縛り付けていたらいけないんだ。」
「笑って彼女を送り出すのが、私たちにできる最初で最後の恩返しになるんじゃないかと思ってな。他に、私たちにできることなどないだろう?」
「彼女は私たちがいなくとも立派にやっていける。なのに、肝心の私たちが彼女を駄目にしてはいけないと思ったんだ。」

町の皆がそう思っている。
結ばれた言葉に、青年は吐息をついて笑った。

「…ありがとう、ございます。」
青年は、今の今まで主の意向のとおりこの町を離れずにいるつもりだった。けれど男たちの言葉を聞いて、町の人々の想いを聞いて、その考えがかすかに、けれど確実に揺らぐのを感じた。
「…休暇には、ここへ帰ってきてもいいですか…?主と俺を、忘れないでいてもらえますか?」

どうして忘れることができるだろう。時々は帰って来てくれないと泣いてしまう。また元気な顔を見せてほしい。口々に言われ、青年は今度こそ折れた。

「俺からも、主に言ってみます。」
…その必要もないかもしれないけれど…とは言わなかった。窓の外、しゃがみ込んでいる主の頭のてっぺんが、青年には見えていた。

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「ぁいてっこらっ杖はそうやって使うんじゃない!!」
ひと気のない早朝の公園の片隅に、杖の叫びが木霊した。

「もー…むりー…!」
風を起こす呪文を唱え、杖を振る。ただそれだけのこと。
そう、一言一句間違いなく呪文を唱え、術式に沿って正確に杖を振るだけのこと。
けれど青年の杖からは風のかの字も出てこない。木の葉一枚飛ばせない。
喚き散らして杖を傍らの木に打ち付ける青年。するとまた、杖が半分泣いているような声を上げてそれを制した。

「待てこら!だっ、いたっ、待てっ…て!やめんかい!!お前という奴は、俺をもっと大切にしたらどうなのだ!いいか、杖というのはそこらの火掻き棒とはわけが違うのだぞ!魂の宿るひとつの生命なのだ!そこのところをもう少しわか…」
「ぁぁー…っこのままじゃ留年しちゃうよー…!まじいやだー!留年っって響きだけでも格好悪いー!」
「おいお前聞いているの…」
「火と水はいいんだ!なんとか及第点はもらえるくらいには問題なく課題をこなせるんだ!なにがやばいって、土と風だよなー…!土はそれでも多少なりこなせるけども…っ風はなぁ―…!」
「おいお前っ」
「んぎゃー!!まじいやだー!ダチが先輩になるのってどうよ?いやだよなそんなんは!ひぃぃー…!まじでかみさまたすけてよー!」
「人の話を聞かんか!!!」

両手を空に突き上げて、そして力尽きて突っ伏す青年。
杖の声など完全無視だ。

まぁそれも、実は仕方のないことなのだが。

杖の声を聞くことができるのは、術者の中でも特に「高位」な者に限られる。中等学校で行われる進級試験での及第点すら危ういこの青年に、杖と対話するほどの実力はどう考えても、皆無。

そもそも杖というものは作られたときから魂を有している。
「樹の守人」と呼ばれる、木をはじめとする自然界との対話ができる特別な術者が育てた木から作られる杖。その杖は本体から切り離されて尚ひとつの魂として命と心、知恵を有している。
けれど、ほとんどの杖は自ら口を利かない。
己が認めた主人にしか耳を貸さず、また本来の力を貸さない。その時点ではどこにでもある、それこそ火掻き棒と変わらない。それでもその内に秘めた力は有り余る故に、杖自身が力を貸さずとも中級程度までの呪文ならばたいてい問題なく行使できる。
しかし、術者の力量があまりに己にそぐわない脆弱なものであると判断したならば、杖はどこまでも非情だ。場合によってはその術者を焼き殺したりなどもする。
人が杖を選ぶのではない。
杖が、人を選ぶのである。

「いいか、落ち着いてやればできるんだ。お前なら絶対できる。」
今、まったく力なき青年の手の内に大人しく収まっているこの杖は、実は使う者が使えばかなりの力を発揮する代物である。杖自身が探そうと思えば、かなりの高位の術者のものになることも可能なのだ。
けれど杖は、かれこれ5年近く青年のもとにいる。

はじめて青年と出会ったときに確信したからだ。
この青年こそが、己を御するに相応しい術者になると。
だから…
「落ち着け。たかだか風を操る程度のこと、お前にできないはずがないのだ。俺の目に狂いはない!」
こうしていつも青年を叱咤激励している。己の声が、青年に届かないことを知っていて尚、それでもいつかは届くと信じて。

これよりさらに数年後。
王宮の近衛隊隊長らとも張り合えるほどの強大な力を持つ一人の青年が、史上最年少の若さで近衛隊入隊を果たすこととなる。

けれどそれは、また別の話。

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かつて、「鴉」と「雲雀」の主であった男。
単なるいち王佐にすぎなかった男は一国の王となった。

守るべき王を失い、守るべき民の多くを失い、右腕を失い、両目の視力を失い、左耳を失った。それでも男は戦い、国を戦の混沌から救った。
とはいえ救ったとは名ばかりの傲慢な言葉で、その実は、怒りと悲しみに我を忘れた男の暴走が運よく国を勝利へ導いたに過ぎない。

これ以上何も失うものなどないと過信をしていた男は、感情のままに多くを踏みにじり握り潰し、そうして殺してきた。罪悪ひとつ感じることなく、この殺戮行為こそがやがて国を守ることになるのだと妄信していた。

鴉と雲雀の…主に鴉の静止に一切耳を貸すことはなかった。
鴉と雲雀は男の使役する獣であり、どんなことがあろうとも男から離れていくことはないと愚かな過信をしていた。
男は傲慢にも鴉と雲雀の忠誠心や敬愛の心を、絶対の服従心だと勘違いしていた。男が解放してやらない限り、二人を失うことなどありえないと思い込んでいた。

けれど今、男の傍らにはそのどちらもいない。
再三に亘る鴉の静止と雲雀の忠告を黙殺した。
鴉を失ってようやく我に返ったが時既に遅し、雲雀もまた男の下を飛び立った。
生まれてこの方ずっと共にあった鴉が、自発的に男のもとを去るなど思ってもいなかった。常に物静かであった雲雀が男を責めるなど、はじめてのことだった。それほどまでに二人を追い詰めたのは男以外の誰でもない。
後悔など、なんの意味もない。

男は王の部屋の窓から、青い空を見仰ぐ。
四十一年前、まだ王佐として国に仕えていた頃の男とは似ても似つかない容貌。随分とやつれ顔色もよくない。それでも男は毅然としていた。

鴉と雲雀が己のもとを去り、今度こそ全てを失ったかと思った。
けれど男はまだこの国に必要とされた。
だから男は生きている。今度こそ道を見失わないよう、国の為に誠心誠意生きると決めたから。そうして王となり二十年、男は賢王と謳われ、国も安泰した。妻を娶り子を成し、その三人の子らもまた猛き賢き王子だと言われている。
長男は学問優秀で、国立の大学校で術学を学ぶ道を選んだ。
三男は自由奔放で、今はどこで何をしているのやら、常に国を空けて各国を見聞して回っている。

次男は明日に戴冠式を控え、落ち着きがない。
文武共にそれなりにこなす子だ。愛想のよさでは三兄弟いちで、普段は多少気弱な面があるが、いざというときの決断力には目を見張るものがある。

男は最近よく昔のことを思い出すようになった。
悪い思い出ばかりではない、楽しかった思い出も、ちゃんと思い起こせるようになった。そうして夢に見る。
愛する王がいて、民たちがいて、鴉がいて、雲雀がいて…男がいる。憂うことなど何もない、幸せな日々。

「全てが終わったら。ひと目でいい、お前たちに会えるだろうか。今一度、お前たちに謝りたい…そして感謝の気持ちを伝えたい。」
王の部屋。男は窓際に腰掛け、真っ青な空を見仰ぐ。
涼やかな風が男の頬を撫で、部屋の中に舞い込んだ。

―…明日、貴方を迎えにゆきます。

不意に頭に直接声が響いてきたのはその時だ。
誰の声か…そんなこと、分かりきっていた。けれど信じがたいことだった。雲雀の声が聞こえるなど、あり得ない。雲雀は男を怨んでいるはずで、もうとうの昔に去っていった者だから。
男は立ち上がり、周囲を見回す。

「雲雀…雲雀…!すまなかった…私は間違っていたんだ。君に謝りたいと、ずっと思っていた。どれほどのことをしても君には償うことはできないが…鴉にも…取り返しのつかないことをしてしまったが…それでも、私は君に謝りたいと…っ!」
―…主、貴方は全ての罪を償いました。
「違う!そんはことはない!私の罪は、決して拭われない。」
―…主、北の御方は生きておられます。貴方に再び会いまみえる為、帰ってきたのです。けれど主は、己の罪を悔いて、今度こそ国を守るため、頑張っておられた。だからこうして、主が全てを終えるのをずっと…二人で待っていたのです。
「私を…私を許すというのか…?あれほど君たちを苦しめたのに!」
―…そんなこと…。ワタシたちは元々、貴方を怨んだりはしていないのですよ。苦しんだのは、主を愛していたからです。ワタシたちは主とまた、三人揃って幸せになるため、ずっと、主を待っていたのです。

―…主。
「鴉…!」
―…よく、頑張られたな。ワタシは主を、誇りに思う。

『ワタシたちは永久に貴方と共に。』

翌日、戴冠式を程なく終えた元一国の王は、忽然と姿を消した。誰もその行方を知る者はいない。

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銀の嘴は絶望した。希望など欠片もなかった。何を信じることもできず、何を糧にしたらよいのか分からず、ただ己の心の弱さにばかり絶望し、身動きひとつ取れなくなった。
だから…逃げ出した。
獣として唯一心を許した南の御方にすら背を向け、闇へと堕ちた。

主にはじめて出会ったのは、銀の嘴が成獣して間もない頃だった。
世に生れ落ちておよそ一千年、銀の嘴がようやく迎えた成獣。
それはあまりに遅い羽化だった。銀の嘴は、突然己の手に余るほどの力を手に入れてしまったのだ。銀の嘴は拒否する間もなくその力に自我を圧され、精神に異常をきたした。
主が目の前に現れたのは、そんな時だった。

殺戮の虜になっていた銀の嘴を押しとどめ、諫め、力の抑制と制御の仕方を教えてくれた。優しく、時に厳しく根気よく銀の嘴を励まし続けてくれた。
最初こそ銀の嘴は生まれてはじめて接する人間の温もりに怯えたが、気付いた頃には主を何より大切に思うようになっていた。
銀の嘴にとって主は誰より賢く暖かで、何より気高く優しい人だった。
何を差し置いても守り抜くと誓った。

銀の嘴は主の元へ下り、主の為だけに生きることを決めた。

それよりさらに半世紀、銀の嘴は南の御方に出会った。やがて銀の嘴は南の御方を心底信頼し、心を許すようになっていた。
銀の嘴にとって南の御方は誰より強く鮮やかで、何より静やかで穏やかな獣であった。

逃げ出した銀の嘴。
振り返るつもりなどなかった。
全てを見限り、全てに背を向けて闇へ堕ちてきた。

『北の御方…。』
深い眠りに就こうという刹那、密やかな声が銀の嘴を呼んだ。それは紛れもなく南の御方の声であり、銀の嘴が聞き間違えるはずもなかった。
見捨てて逃げ出したのに、追いかけてきてくれた南の御方。
銀の嘴は心の中で血の涙を流し、南の御方の迎えを拒否した。

今更縋ろうとは思わない。
もうどんな希望をも必要としない。
そう、決めた。

『北の御方、ワタシは必ずや、この闇を払ってみせましょう。』

決めたのに。

『御方をこの闇から連れ出すためなら、どんな犠牲も厭わない。』

決意が、

『御方はワタシが獣の中で唯一心を許したお方です。その御方を救えるのなら、どんな努力だって怠らない。どんな小さな希望にだって縋りついてみせましょう。』

心が、

『どれほどこの闇が暗かろうと御方を感じることができるから、ワタシは立ち向かえるのです。ワタシは二度と後悔しない。全力で御方と主の幸福を取り戻すと、決めたのです。』

揺らぐ。
傾いで、ぐらついて、締め付けられる。
銀の嘴はとつとつと語られる南の御方の言葉に、ただ押し黙る。口を開けば慟哭しか出ては来ないような気がして。

『…一緒に、帰りましょう?』
『一緒に……。』
『ええ、これからはずっと…三人一緒です。今度こそ、揃って幸せになりましょう。』
力強い言葉。
何も恐れない、どんなに厳しい運命にも立ち向かえそうな、自信に満ちた声。銀の嘴は、歪む視界の彼方に南の御方の白く輝く翼を見た。

―…枯れ果てたと思っていた涙がひとつ、こぼれた。

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闇を穿つ一筋の光。
その光はすいと闇を落ち、やがて闇の底に辿り着いた。そして純白の翼を広げ、金の嘴を鳴らして鳴いた。青灰色の澄んだ瞳が限りない闇のそのまた先を見据え、何度か瞬いた。

『北の御方。』
小川のせせらぎのように、呼ぶ。
応えはない。

『北の御方。』
春風の囁きのように、呼ぶ。
応えはない。

『北の御方。』
まどろむ午後の日差しのように、呼ぶ。
応えはない。

『どうかワタシの呼び掛けに応じてはくださらないか。…北の御方…ワタシは、御方を救うために、此処に参った。北の御方…ワタシは、御方のためなら命を失うことなど厭わない。』
小さな鈴の鳴るように、話しかける。
応えはない。

『主様が言っておられた。命など惜しくはないと…己が身を捨ててでも闇烏…御方を闇から救い出さなければと。主様は悔いておられる。私利私欲の為だけに御方を使役したことを、心から悔いておられます。』
金の嘴は必死になって鳴いた。翼を鳴らし、いくつもいくつも真珠の涙を零して泣いた。
闇の彼方に蹲っている、金の嘴が同じ獣として唯一心を許した相手に向かって、語りかけ続ける。喉から血が出ても、金の嘴は嘴を閉じなかった。

北の御方は聡明で美しい、漆黒の使い魔だった。
主もまた聡明で美しく、武芸に長けた美丈夫であり、また己に厳しく万人に優しい、北の御方と金の嘴にとって最愛の主であった。

…だがある日を境にして主は変わった。

主は守るべき王を失った。守るべき民の多くを失った。右腕と両目の視力、そして左耳を失った。
変わり果てた主は気が狂ったように敵国への憎しみを吐露した。主は国の為民の為…そして、亡くなった王と多くの民の為と言いながら、北の御方の力を北の御方が望まないやり方で使い続けた。
他の国を…他の国の民を滅ぼすためだけに。
北の御方は嘆いた、主を責めた、主を止めようとした、主を諭した。けれど主の耳には、そのいずれも届かなかった。
やがて北の御方はその身を闇に蝕まれ始め、力を失い、心を失った。生ける屍となった北の御方は、最後の力をみずから闇に委ねることで主の元から去った。

主は北の御方が居なくなってはじめて、我に返った。
金の嘴は気が狂いそうなほどの強烈な怒りと悲しみに耐え切れず、はじめて主を罵倒した。同じ獣として唯一心を許した北の御方を想うと……いや、それよりも北の御方に何をしてやることも出来なかった自分の不甲斐なさ想うと、ただ、泣き叫ぶしかなかった。
やがて主は自らの過ちの重さに病み、倒れた。

金の嘴は考えた。
自分の魂ひとつで闇から北の御方を救えるのなら、安いものだと。主の心を傷つけた代償は、北の御方を救うことで果たせるのではないかと。
だから金の嘴は闇に飛び込んだ。
全てを終わらせるために。

『北の御方…。』
『…捨て置け。』
そうして幾度呼びかけただろうか。ようやくひとつの応えがあった。金の嘴は歓喜にか悲愴にか、泣きたいほどの苦しみを覚えた。しかし、自分を落ち着けるようにゆっくりと嘴を開いた。
『北の御方…御方は主様の元へ戻らねばならない。』
『断る。ワタシのことは、二度と再び顧みるな。ワタシは…一人になりたい。もう充分に尽くした。ワタシという存在全て…魂までをも削って、最上の忠誠を持って仕えてきた。これ以上何を望む。』
『御方、主様が望むのは御方と再び合間見えることのみ。もう一度共に野を駆けたいと、言っておられた。』

長男沈黙が降りる。

『頼む…戻ってくれないか。もう、無理だ。』
『何を無理なことがありましょうか。』
『…ワタシがワタシでなくなっていくのが分かるのだ。ワタシはいずれ…全てを憎むようになるだろう。全てを貪り殺し、焼き払い、押し流し、呪うだろう。ワタシはすでに、闇に侵され始めている。』
『ワタシがお救い致します。どうか、御方の希望をワタシに預けてはくださらぬか。』

長い沈黙が降りた。

『……ワタシは、これ以上、何も憎みたくない。これ以上、何も壊したくない。これ以上…あの人…主を呪いたくはない。』
『そうはならないでしょう。主様は元に戻られた。御方もまた必ず、元に戻ることができましょう。…けれど、お二方が本当の意味で元に戻られるというのは…お二方がまた、お二人一緒にあってこそ、です。』

金の嘴は、一歩だって引く気はない。
金の嘴は、己の全てをかけてでも北の御方を闇から連れ帰ると、己に強く誓っていた。
もう負けない。
二度と、大切な者を失わないように。
失わないために、次は全力で手に入れると決めた。

主様と北の御方の時間を、己が手で取り戻す。

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