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(好物のウバを淹れ、立ち昇る香りにほわりと癒されながら)
突然だが、推理小説の禁じ手とされている「犯人は主人公」なるものを認める人はどのくらい存在するのだろうか。

物語の主人公というのはいわば読み手と一心同体といえる。
主人公の見るものは当然読み手が見るものであり、主人公の聞く言葉は読み手の聞く言葉となるからだ。主人公は読み手でなくてはならないし、逆に読み手は主人公でなければならない。主人公イコール読み手。これは小説界における大前提の決まりごとではないだろうか。
(…まぁ、そんな風に決め付けているのは自分だけでしょうけれど…ね/苦笑)

犯人が主人公であるとすれば『そもそも事件の全ての真相を知っている主人公』イコール『何も知らない読み手』にはまかり間違ってもならない。
推理小説を読むにあたって、読み手は当然自分を推理する側の人間として読む。これは間違いない。

犯人=主人公=読み手=推理人。
…おかしなことだ。こんな図式はおかしいそうおかしい。

すっかり赤頭巾ちゃん気分で森を歩いていたら、お前は狼だと狩人に言われて有無を言わさず撃ち殺された心境だ。気付いてみたら、本物の赤頭巾ちゃんは自分のお腹の中でしたという感じ。
もしくは狩人気分で狼を撃ち殺したら、実はそれは森一番心の優しい狼で、お前は悪人だと森じゅうの動物たちに罵られ謗られ、逃げ惑った末に殺した狼の仲間に食い殺される心境。

不意打ちもいいところだ。
推理小説とは推理の過程を楽しむものではないのか。
それを突然、自分(主人公)が犯人でしたと言われてしまえば何の太刀打ちも出来ない。読者としては「ああそうなんですか」と受け入れるしか仕方ない。

犯人が主人公である以上、それを読み手に教えるのは主人公以外に存在しない。もしくは誰かにそれと指摘されなければ…とはいっても、最終的に己を犯人だと認めるのは主人公を置いてほかにはおらず、結局読者は己の分身に裏切られるというかたちになる。
どんな物語においても、読者が最も信頼するのは主人公だ。
主人公の目は読者の目。主人公の耳は読者の耳。主人公の記憶は読者の記憶。それがあらゆる角度から否定されるのが、「犯人は主人公」という図式である。

自分はいまいち「犯人は主人公」というこの図式を好きになれない。
他の読書家さんたちはどう思っているのだろうか。
とても気になった。

追記は単なる戯言。上記のお話には一切関連なしです。

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イギリスの作家、サルマン・ラシュディ氏の小説「悪魔の詩(うた)」の翻訳者の五十嵐一さんが91年7月に殺された事件。

この事件が15年の歳月を経て、今日(7月11日)の深夜0時、公訴時効を迎える。

遺体は首はほぼ切断された状態で、胸や腹を刃物でめった刺しだったそうだ。
茨城県警は今日まで、延べ3万4千人を捜査に投入したが、現場に残されていたカンフーシューズの販路や製造元は特定されず、さらには五十嵐さんが殺害された筑波大(五十嵐さんは助教授である)が、事件当日夏休み中だったということもあり目撃情報も集まらなかった。

非常に残念な結果のまま公訴時効を迎える本事件だが、犯人の国外逃亡による時効停止の可能性を考慮に入れ、今後も捜査を行う方針のようだ。
……けれど当然、今後捜査の規模は縮小の一途を辿っていくだろう。
人の記憶というものはとても曖昧で、日々新たな殺人事件の起こるような昨今では、15年前もの殺人事件など、どんどんと人々の記憶から消えていってしまうのだろうと思うと、なんだかやりきれない気持ちにもなる。

「悪魔の詩」をめぐっては、当時のイラン最高指導者ホメイニ師が、著者(ラシュディ氏)と発行人に対して死刑宣告をしたことで一躍国際宗教問題にまで発展した。
「悪魔の詩」はイスラム教の預言者マホメットと彼の12人の妻の生活を記したもので、その内容というのがまたイスラム教を冒涜するようなものだそうで。
一時はラシュディ氏を「処刑」した者には巨額の賞金を与えるだなんて話も出た…。もしラシュディ氏処刑を実行しようとしたものが死亡したさいにはそれを「殉職者」とするとまで。

あれから15年。
五十嵐さんの妻も58歳になった。ラシュディ氏は現在も作家として活動を続けており、今尚新作を発表しているそうだ。

なんともやりきれないおかしな話だと思う。

…なんて、だらだら書いていたら日にちが変わっていた。既に時効は成立しているわけだ。今頃犯人は何を思って何をしているだろう。
そもそも、己が時効を迎えたことを知っているのかいないのか。
その逃亡生活の果てに何を思い今日まで生きてきたのか。
…いや、そもそも、犯人は今もまだどこかで生きているのか?
もしや死んでいるのではないか?

死は終わりではない。
死ははじまりに過ぎない。

罪は必ず別のカタチで購わざるをえなくなるもの。
捕まらなくともいずれその身に報いとなってかえるだろう。
二人称についての考察。
「私は君という二人称が、とても好きです。」
こう書くと、なんだかとても国語の作文のような印象(何)

とにかく今日は、「君」という二人称が好きなんですという話。

まず、「君」というのは、男女に共通して使える。
そして「お前」「あんた」などと違って雑多な感じが全くしない。「貴方」「そちら」などの何だかとてもお堅くご丁寧な感じでもしない。
そう「君」という二人称は他のどれとも似つかない、フレンドリーかつちょっと丁寧な、それでいてほんの少し大人な雰囲気も味わえてしまう、くすぐったくも素敵な二人称なのである。
そして、「君」というのは初対面の人にでも元々の友人にでも、オールマイティに使える魔法の言語である。

そんなわけで自分は昔から…小さな頃、はじめて「君」という二人称で呼ばれて以来ずっと、物書きをする時も、日常生活でも、「君」を愛用している。
はじめて「君」と呼ばれたときの衝撃は生涯忘れないと思う。なんて素敵な言葉なのだろうと思った。他人行儀じゃなく、けれど丁寧で優しくて…子供心にえらく感動したものだ。

というわけで「君」。
君にはもうひとつの意味がある。それは君主の意を示す君である。当然ご存知かと思うが、発音が違う。一般的に使用する君は卵の「黄身」と同じ発音で、今言っている君主の君は「雨」と同じ発音である。いやそんなことはどうでもいいですかそうですか。
君主に対しての君。
とても簡素で美しい言葉だと思う。他のどの敬愛の呼称より短く、それでいてまったく粗雑ではない。君主と家来が遠からず近からずの距離にある。

最近、「君」を使用している人を見かけることが少なくなった。少し哀しいことだ。もっと普及したらよいのにと思う。
心底。

というか某ジャニさん(某の意味ないやん)は二人称で「ユー(you)」を使うけれど…あれってどうなんだろう。他に使っている人ってちょっといない。
……なんていうか、使うと恥ずかしくなってしまうのは自分だけだろうか…。とはいえ他にもそんな風に面白い二人称があったなら、是非知りたいものだ。
今日のお話は、悪魔の変装を見破ろう★というお話。

悪魔は化ける。
通常、それは人間と会う時のみとされている。たとえば、悪魔同士で語らっている最中などには間違っても化けない。当たり前の話だが、「俺、フラれちゃったんだよ…」などと嘆いている時に、相手にカバに変身されようものなら即刻殺意が沸くだろう。そりゃあもう、血沸き肉踊る大乱闘になってしまうというものだ。
キノコに化けられてもいい気はしない。

というように、悪魔は人間と会う時のみ姿を変える。
大抵は動物に化けるそうだ。犬や猫が変化人気ランキングの上位に位置しており、それは何故かといえば犬猫は最も人に取り入りやすい…もっと言えば、何処にいても不審に思われない等々の理由があるからだそうだ。

…ここで思うのだが、犬猫嫌いの人間にとっては、彼らが何処にいようとそれは憎悪と嫌悪と拒絶の対象にはならないだろうか…。取り入るどころか、近付くことさえできないはずである。
加えて言えば、国会議事堂の大会議室や大学病院のICUなどにぽつんと犬猫がいれば、それだけで不審だと思うのだが…どうだろう?
…なんて、屁理屈を述べてしまったが、それはさておき。
とにかく、彼ら悪魔の間では犬猫が最も人間からの親しみを得られる動物であると認識されている。

また悪魔は、人を攫うときには馬に化ける。
何故だろう…とにかくこの点は自分としても不思議で不思議で仕方がないのだが、昔から悪魔の間では「人間をつれてっちゃうときはウマが基本だよねー」ということらしい。
逃げ足はかなりのものだろうと推測できるが、そもそも、どうやって背中に人間を乗せるのであろうか。そして、どうやって逃げないように固定するのか…謎である。
まぁ、どうしても馬で攫うというのならば、それは悪魔二人がかりの仕事なのだろう。一頭の馬がもう一頭の馬の背中に、蹄を器用につかって、人間を乗せようとしている…そんな風にうんうん唸って必死な様子の彼らを思うとちょっと笑えr…いや、大変そうだなぁと思う。

次いで、悪魔が人間のお喋りの邪魔をする時は蜂に化ける。
ぶんぶんぶんぶん人間の周囲を飛び回るらしい。何故悪魔が人間のお喋りを邪魔する必要があるのかは、不明だ。

そしてこれは悪魔にとってひとつの遊びでもあるのだが、人間を驚かすためだけに化けることもある。
狼、ハゲタカ、狐、梟、蜘蛛、蛇…龍やドラゴンに化けちゃうこともある。ここであえて龍とドラゴンの違いについて論じることもないだろうが一応。龍は蛇のように長い首と立派な髭と角、鬣を持っている―…いわゆる「日本昔ばなし」のオープニングに出てくるようなアレのことで、ドラゴンはのしんのしんと街を練り歩くための足と羽を持ち、ティラノサウルスの胴体をもう少し太らせた感じのアレのことである。
話がズレたので元に戻ろう。

突然だが、雄でも雌でもよいのだが、鶏を飼っている人に朗報を。
鶏にはちょっとした特技がある。
なんでも、化けた悪魔を見破ることが出来るらしい。そうしてその恐怖にけたたましく鳴き叫ぶ…というのだが、案外と肝の据わった鶏の場合は、正体を見破っても平然としているそうだ。
役に立つのか立たないのか…とにかく、鶏ってば凄いのだ。
フライドチキン万歳。

神話に出てくる半魚人だとか半分人間半分牛、なんていう爬虫類なのか水生動物なのかはたまた人間なのかなんなのか…なんていう生き物は、悪魔たちの悪戯が三割近くを占めているらしい。
残りは天使たちや、長い時を生きた猫や狐などの悪戯。
各国各一族の有力選手たちが集まって行われる変化大会などには、大変興味がある。一度はこの目にしてみたいものだが、当然、ただの人間である自分では観客にすらなれない。

ただの人間であることの切なさというのは、こういう時に感じてしかるべきだと思われる。嗚呼無情。

最後になるが、悪魔は人間に化けることもある。
これを見破るのは案外と簡単である。
けれど間違っても「あんた悪魔でしょう」なんて言っちゃいけない。下手をすると首を跳ね飛ばされるかもしれないからだ。そうでなくとも「馬鹿言ってんじゃねーよー」などと言われて頬を張り飛ばされるかもしれない。
中には奇特な悪魔もいて「ぴんぽーん♪見破ったご褒美に、願い事をひとつ聞いてあげよう★」なんて言ってくれちゃったりもするが、うまい話には裏がある。気をつけろ。後になって「願いを叶えてやったんだから魂をおくれよー」なんて言われても、誰も助けてくれない。

人生何事も慎重に。
これ、一番大事。
と、いうものがあるそうだ。
悪魔の辞典なのか、はたまた悪魔のような辞典なのか…なんて言われているが、ぶっちゃけ悪魔のような悪魔の辞典、でよい思う。
前者を人間の辞典と置き換えてみた場合、人間辞典なるものを人間界で作ろうと思ったら、それはそれは骨の折れる作業になる。ただの一日で多くの人間が生まれ、そして死んでいるからだ。
同じく、悪魔界に悪魔がどれだけいるが知らないが、それら全ての悪魔さんたちに個人情報をおくれと頼んで回るのは、そりゃあとんでもなく大変な仕事になる。悪魔によっては口を利く間もなく首を跳ね飛ばしてくる悪魔もいるわけで、人間なんかに聞くよりよほど危ない。
デッドオアアライブだ。
それでも「アナタのお名前なんざんしょー」なんて一悪魔ひと悪魔(一人ひとりと書いたらおかしいだろうし…)に聞いて回った地道な編集者の苦労を思うと、涙が溢れて止まらない。
ともかく悪魔の数が人間の数の半分でも、そのまた半分でも、それを辞典としてまとめるにはとてつもない時間と忍耐が必要になる。

とにかく、悪魔辞典。
今日はそんな悪魔関連の話をしてみようと思う。

悪魔辞典。これは悪魔の載っている辞典だそうだ。まったく面倒なことに五十音順じゃなく、体重だか身長だか爪の長さだかの順に並んでいるらしい。とんでもなく使い勝手が悪い辞典だ。
これぞ鬼か悪魔のように使い勝手の悪い辞典といえよう。
……ここでふと思うのが、彼ら悪魔たちは体重や身長や爪の長さが変化しないのかという純粋な疑問。生まれてから死ぬまで同じ体重と身長と爪の長さをキープするのって…結構大変そうじゃないか。
人間と同じで悪魔だって太るはずだ。食べすぎたのはー貴方のせいよーてな具合で太るわけだ。身長だって成長期を迎えた悪魔なら伸びるだろうし、爪なんて、切ってしまえばそれまでだ。改訂に改訂を繰り返さなきゃならないだろう編集者の血と汗と涙を思うと…以下同文。

悪魔辞典を開く時には「お疲れ様」の気持ちを持とう。

…そうは言うけど、辞典のくせに使い勝手が悪いっていうのはどうなんだ、なんて編集者に怒りをぶつけたくなる気もするがそこはそれ、大人になって我慢するのだ。悪魔か天使でもない限り、編集者は既にこの世にいないはずである。きっとあの世でバカンスを楽しんでいるだろう。…そう、いない人間に怒ってみても仕方がない。
悪魔の辞典は悪魔のような辞典、これを前情報として知っていれば、いざそれが手に入ったときの心の持ちようも変わってくるというものである。

さて、話は変わるが悪魔は礼儀正しい。
人間が初対面の人にするように、悪魔だって挨拶をする。そう、きちんと挨拶さえすれば、まず第一印象は悪くならないはずだ。あまりに口臭がきついだとかだらしのない身なりだとかじゃなければ、だが。

また悪魔は非常に疑り深い。
例えばサタンは元々「人に苦痛を課す天使」だった。苦痛を課す…つまり、神に身も心も捧げたと公言している人間が、本当の意味で心底神を信じ、その教えに従うかを調べ、それが偽りの信仰心であれば苦痛を、という具合。故に悪魔は非常に疑り深い。
そもそも疑うことが仕事なのだから仕方がない。
「ねぇ。君ってば、今苛々してる。」
「してないよ。」
「してるよ。」
「してないよ。」
「嘘。」
「嘘じゃないよ。苛々なんてしてない。」
「でも本当の本当はしてるんでしょ?」
「してないってば。」
「なんだか顔が怖いもん。苛々してるからでしょう?」
「してないよ。怖くないよ。」
「嘘だよー。君、絶対に苛々してるもん。」
「うっさい!してないって言ってるじゃねぇかー!!!」
「…ほーら、苛々してるじゃん。」
繰り返すが、悪魔は非常に疑り深い。

…どんどん本題からズレてきているように思うが、気にせずどんどんいこう。小さなことに囚われていては、大器は晩成しない。
ここで「無限」関係者が「へ?何、アレってそういう意味なの?」と思わず口走るような豆知識をば、紹介しよう。
既にご存知の方もいるかと思うが、遥か昔…とは言ってもそんなに昔じゃなく15、16世紀頃に多くの魔道研究者によって書かれた一連の書物を「グリモア(魔法書)」という。天使や悪魔など、彼らの特徴や出身地、能力や召喚方法、性格などにいたるまで懇切丁寧に説明してある優れものである。
これが、現在世界中に散らばるエセ悪魔辞典やエセ神名辞典の大元だと言われている。

伝言ゲームで最初の人間が口にした文章は、人から人に渡っていく過程で確実に改竄されていく。それは修正しようのない誤りで、けれど誰もそれには気づかない。
…最初の人間以外は。
つまり、現在出版されている膨大な数のエセ辞典がどれほどに正確であるか、また不正確であるかは、正真正銘本家本元のグリモアと、そこに記載されている悪魔や天使たちしか知り得ないのである。

悪魔辞典。
庶民的なヒヨッコ悪魔から、悪魔を統率する悪魔の王までありとあらゆる悪魔についての知識が詰め込まれた辞典。一度は手にしてみたい代物だ。仲良くなればご飯だって作ってもらえるらしい。…悪魔の得意料理なんなのか、とても気になるところだ。

…悪魔に家事をしてもらう人間。
……くすっ…楽しそうだ。

長くなったので、今日はここでお開き。

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